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母の日−父の日 特別企画 ヒーラーから ありがとう

VOL.01 

母の日〜父の日までの期間を記念して
父母をテーマとしたコラムを綴ります。
どうぞお楽しみに!

 

 
 

子供の頃、福引きがあると、
ガラガラと回させてもらっていました。

・・・

父と二人で商店街へ出掛けたある時、
福引きのチャンスが到来しました。

カラカラ…と回すと、コロン、と白い玉が。

父と二人で、「はずれた。」と思った瞬間、
「カランカラン♪」と鐘が鳴りました。

よく見ると、白が一等でした。

一等の商品は現金一万円だったのですが、
当時の私には、その価値がよく分かりませんでした。

喜ぶ私に父は、
「そのお金でお前の好きなものを買いなさい。」
と言ってくれました。

そのまま町を歩くと、
おもちゃ屋さんのウインドーで
「巨大な 白い猫のぬいぐるみ」と運命的に出会いました。

消費税のない当時、その巨大な猫ちゃんは、一万円ぴったり。

帰りの車では、その猫を抱きかかえて
幸せいっぱいでした。

・・・

大人になってから思い返すと、
「一万円」がそのまま「ぬいぐるみ」になってしまうのは、
何とももったいなかった気がします。

ですが同時に、父の優しさを、改めて嬉しく感じました。

あの頃と変わらず、父は
今でも私のすることを温かく見守ってくれています。

…そしてあの日以来、
くじ引き系はほとんど任されるようになりました。

父と離れて暮らす今、季節ごとに「宝くじ」を頼まれています。

感謝の気持ちを込めて、
「大当たり!!」といきたいのですが、
こればかりは未だ達成できていません。(笑)

どんな形であれ、
感謝を伝えていきたいと思います。

 

 

 
 

「いつから写真やってるの?」
と時々聞かれることがあります。

高校の写真部に入った頃?
くらいに思っていたのですが、
最近、思い出したことがあります。

・・・

幼い頃、庭に咲いている花を撮ったことがありました。
「これで写真を撮るっ!」とでも言ったのでしょう。

初めて手にした一眼レフカメラ。
使い方なんて知りません。

「今日は曇っているからね。…はい、これで良し!」

そういって、カメラの絞りとシャッタースピードを
合わせてくれたのは、父でした。

あとは自分でピントを合わせてシャッターを切るだけ。
レンズを覗いて、花に近付いて、色とりどりの花を撮りました。
1回シャッターを切るたびに、
フィルムを巻くことも教えてもらったのですが、
あの時は、すごいことが出来るようになった気分でした。

後日、写真屋さんへ出来上がった写真を取りに行ったところ、
お店の人に「上手に撮れたね。」と言ってもらって、
子供ながらに、とても嬉しかったんだっけ・・・。

・・・

もう二十年以上前のことですが、
私が写真を好きになったきっかけは、きっと、あの時です。

大人になって自分で初めて買ったカメラも、
「マニュアルの一眼レフ」でした。

自分で露出やピントを合わせる楽しみや、
あの重たくて明るいレンズの感触は、
幼い時に初めて触らせてもらった
父のカメラが原点だったのだと思います。

今は、激しく手ぶれした写真を
携帯電話のメールで送ってきてくれる父・・・。

そんな父が、私の最初の師匠なのでした。

 

 

 
 

小さい頃、家族で住んでいた家。

父は、季節が変わる毎に、
部屋の壁紙を張り替えて
模様替えをしてくれていました。

春と秋とか、年に2回くらい
壁紙を張り替えてくれてたっけ・・。

そのたびに部屋が明るくきれいになるので
とっても嬉しかったのを覚えています。

子供ながらに、
職人のような父の仕事振りに
「おとうさんってすごいなぁ〜」
って思っていました。

今年、家の壁紙を破いてしまった私。

あの時の父の姿を、
ふと、思い出したのでした。

 


 
 

父。
頭が良くて、スポーツ万能。

数学を教えてくれたり、
一緒にサッカーボールを蹴ったり。

高校、大学とバレーボールで活躍し、
私が高校生になった頃も、
指導者としてバレーボールを続けていました。


そんな父が脳梗塞で倒れたのは、
42歳の夏。

私は高校2年生でした。


「覚悟をして下さい。」
お医者様から言われながらも
奇跡的に命をとりとめ、
リハビリを続け、
右半身に麻痺を残したものの、
数年後仕事にも復帰してくれました。


そんな父ももうすぐ還暦です。


私は、何から何まで父に与えてもらうばかりで、
今更ながら、
何か父のためにしてこれたのだろうかと
振り返ってしまいます。

バレーボール仲間たちに久しぶりに会いに行った時、
「サーブすらまともに打てなかった…。」
と淋しそうに言っていたことがありました。

当たり前だったことが何一つ出来なくなる事、
多くの方が体験し得ることでしょうが、
その時のショックから這い上がるパワーは
相当のものだと思います。

幸せそうにニコニコ笑っているその姿に
努力や根性が隠されていることは忘れません。

その生き方からも
たくさんのことを学ばせてもらっています。

今や、禿げてボーズ頭のメタボな父ですが、
私にとっては一番ハンサムな男性だと思います。

 

 

 
 

私の父は祖父がなくなった後、
祖父の家があった土地にある施設を建てました。

祖父が生きていたころ、
理想の施設について祖父とよく話していたそうで、
「じいちゃんとの夢の施設を作るんや」
といっていました。

できたのは、オシャレなマンションのような施設でした。
その施設を利用する方々が、
明るく元気な気持ちで過ごせるような空間にするためです。

  さまざまな明るい色の柱があり、
  丸い窓や大きな三角形の窓があります。
  南の壁は一面が窓になって気持ちよい太陽光が降り注ぎます。
  中庭にはたくさんの花と緑と池があり、
  その庭を見ながらほっと一息つける「サンルーム」もあります。

今でこそ、そのような施設も珍しくはないかもしれませんが、
当時はほとんどなかったと思います。

その施設も、もう創立20年を超えます。

あのころは全然わからなかったことも、
今なら少しはわかります。

  そこに、父のどんな思いや苦労があったか。
  そこにくるまでに、父がどんなプロ人生をすごしてきたか。

前よりは、少しはわかります。

私は今、ヒーラーです。

父が今の職業・人生を選択したことと、
私がヒーラーという職業・人生を選択したことは、
同じ思いからきているんだと思います。

少し生意気かもしれませんが、父が「同志」に思えます。

施設を作ると話していた時の父の輝く瞳。
そして、本当にその現実を作り、20年も動かし続けてきたパワー。

私も、ヒーラーとして、かくありたいと思います。


 

 
 

「父」と言われて思い出すこと。
−生きたカニをいただいた時の話。


台所で使っている鍋には入らない大きなカニ。
どうしようかと母と思案していたら、父が登場。

「昔使っていた大きな鍋がある」と言って持ってきてくれました。

・・・それは大正時代か昭和初期に使っていたと思われる、
底の丸い鍋。
現代のガスコンロでは、転がってしまって使えません。


今度は、「よし!」と言って、
鍋とカニを持って、家の外に出て行きました。

ブロック二つを壁の所に置いて、鍋を固定。
カニも無事鍋に入りました。

「これでカニを茹でられるね。 ・・・あっ、でも薪がない」

「大丈夫、ちょっと待ってて」

そういうと、父は薪を取りにいきました。


だけど、うちに、燃やすような薪があったかなあ???
そう考えながら、父を待つこと、しばし。

「持ってきたよ」
と父が手にしていたものは 卒塔婆(そとば)。
(実家は寺なんです)

「えぇーーー、気持ち悪い。やだ!!」

そう抗議すると

「大丈夫。書き損じの供えてないやつだから。」

「・・・。」

絶句する私をよそに、風変わりな薪をくべ始めました。

「南無阿弥陀仏・・・。」 (合掌)


とっても複雑な気持ちでしたが、
カニは美味しかったのを覚えています。

娘の私が言うのも何ですが、
「やっぱり父は不思議な人だなぁ・・・」と、今でも思います。



 
 

小学1年生の夏休み。

「そうだ。花火しよう!」
ある夜、父は思いついたように、私を花火に誘ってくれました。

忙しい父がそんな提案をしてくれることは滅多になかったので
私は宙に浮くほど舞い上がり、心躍らせて公園へ向かいました。
父がいれば、自分では出来ない鉄砲花火や打ち上げ花火、
ネズミ花火も出来るかも知れません。

公園へ着いて、ワクワクしながら花火を選んでいると、
父の姿が忽然と消えました。

幼心に焦って、辺りを探し回ると・・・



ビューン!ビューンッ!!

公園のブランコがもの凄い勢いで漕がれています。


・・・あれは・・・


「おとーさーんっ!!!」

「おーぅい!モモッ!楽しいぞー!気持ちいいぞぅ!」

「そんなにこいだら、ブランコ壊れちゃうよぅ。皆のブランコだよー!」

「だいじょーぶ!ほーらっ!こんな風に高くこげる?見てご覧!!」

ビューン!ビューンッ!!

「花火やらないのぉ〜。」

「やるよー、もうちょっと後でねー!!!」

ビューン!ビューンッ!!


大きく高く、気持ちよさそうに自慢げにブランコをこぎ続ける父。


「・・・やっぱり。」
私は小さく涙をこぼして、先に家に帰りました。
ものわかりの良い子どもでした。


私の父は、あまり親らしくない人でした。
そして、心が、とても自由な人でした。
“ちゃらんぽらん”。
母は、そう表現していました。


父は私に、「期待しないこと」と「受け入れること」を教えてくれました。

今では、想い出す度、
「ふふふ。」と、込み上げます。


 

 


 
 

数年前、父と車で出かけた帰り
父が、いきなり思い立ったように言いました。

「父さんが、職人になって初めて建てた家があるから
  見せてあげる。」


どのあたりかな。。。とおもっていたら、
着いた先は家からそう離れていない場所にありました。

「え!?・・こんなに近くにあったの?」

この家の前の通りなら何十年も前から通ってたのに・・・
なんでもっと早く教えてくれなかったの?
その時は、そう思いました。



もう30年以上前に建てられたという家は
だいぶ痛んできていますが
住人の方に愛されながら、ずっと住んでもらっているようでした。


「右も左も、なぁ〜〜んにも知らない若い頃、
  親方に連れてきてもらって、一緒に建てたんだ。。」と父。

「ふ〜ん。。。」(この家が。。。)

しばらく家を見ていると、その時代の背景が見えたり、
今の私よりも若い父の勇ましい姿、必死さ、悩み、
がむしゃらさ、弱さ、「ここが出発点だ」という意気込み、
色々なものが見えてきました。
音や匂い、声までもが押し寄せて聞こえてきそうでした。。

なんだか、温かく懐かしい、そして少し切ない気持ちになって
「もう、行こうか。。」とその家を後にしました。


よく考えてみると、
父の働く姿はほとんど見たことがありませんでした。
よく知ってるようで、あんまり知らなかったのでした。
なんだか少しさみしく思ったのを思い出しました。


そういえば、子どもの頃は
父の仕事用の木材に囲まれた家に住んでいました。
家の中も木屑や、三角、四角の木の切れ端や
釘だらけだったっけ。。。

本当に何にも無かったけど、すごく幸せだったなぁ。
ここまで大事に育ててもらった・・・
父がその家を見せてくれたのは、
どんなにか大きな意味があったでしょう。

また、自分のことばかりでいっぱいになって、
色々な事を忘れていました。

たくさんのありがとうの思い、
これから少しずつでも伝えていけたらいいな、と思います。



 
 

子供の頃の父との会話。

欲しいものがあり、父に言いました。
何か、父の心にひっかかるものがあったのか、
理由を問われました。

「だって、みんなもってるもん!」という私に、
「みんなって、誰や。言うてみぃ」

「名前言うても、お父さん知らんやん。」
「ええから、言うてみぃ」

そうして、上がった名前は、親しい2、3人。
子供の世界は狭かった。。。

くやしいかな、おねだりは、あえなく却下されました。

その後、父は同様の手を何度か使い、
「クラス全員の名前を聞かされる」という出来事にも遭遇していましたが、
この時の父の真意は、私の中に、深く、残りました。

「みんな」には実体などないこと。
自分の価値観を決める「判断基準」が、実は曖昧であること。

今なら分かります。
どうやってねだればよかったのか(笑)




 
 

父との思い出・・・。
いっぱい、いっぱいあり過ぎて書ききれません。


いつも遊んでくれました。
悲しいときはなぐさめてくれました。
嬉しいときは一緒に喜んでくれました。

父が大好きでした。



中学生の頃、怖い夢を見て、
廊下で一人泣いていたことがあります。

そこに父が通りがかり
  「ちょっと待ってて」と言うと
何かを取りに行ってくれました。

戻ってきた父の手には、「温かい蒸しタオル」。
その温かさは、父の優しさでいっぱいでした。



気持ちが落ち着き、涙がひいたところで、
父はまた、「はい」と言って何かを手渡してくれました。


こ、これは・・・・・・。

・・・缶チューハイ・・・


「酒かい!!」
心の中で叫びました。
お陰で、怖い気持ちは吹き飛びました。


父特製の“なぐさめグッズ”。

どこか憎めない父との思い出です。

 


 
 

父の癌が転移し、
手術が出来る場所ではなく、
抗がん剤治療しか術が無いと知ったとき、
私は既にヒーラーでした。

ヒーラーとしての直感がありました。
今の父への抗がん剤投与は、父の身体の生命を殺すだけ・・・

父の意識を感じたとき、そこは悲しみで溢れていました。

「ああ、そうか、父は逝ってしまうのだ。」と感じました。

母もそう感じてはいましたが、認めることが出来なかった様でした。
母は一時も離れることなく、父の傍で看病していました。

私は、抗がん剤で、日々弱っていく父の細胞を感じました。
母は、日々弱っていく父の傍で看病していました。

父はやがて、立つことも出来なくなりました。
身体の一部が腐り始め、出血が止まらなくなりました。
それでも最期まで意識はありました。

母と実弟に見守られながら逝きました。

お通夜で見た父の顔は、
私の知っている父ではありませんでした。
仏像のように穏やかで安らいだ顔でした。

父は幸せになったんだと感じました。

母は傍で喪主の仕事に没頭していました。


葬儀の日、
父はまだそこに居ました。
まだまだ母が気になる様でした。

母もまだ実感が湧かない様でした。


東京に戻ると、師が父へのヒーリングをさせてくれました。
私は師の身体を通じて、父のヒーリングをしました。
父に触れました。

その後、父を高い光で包んで下さいました。
私を覆っていた悲しみが無くなりました。
父は、やっと癒された様でした。


49日を過ぎたある日、母から泣きながら電話がありました。
「父さんの使っていた車を処分したら、寂しくて・・・」
父は旅立った様でした。

これが父の最期の思い出です。


私は、ヒーラーで良かったと思いました。
今もヒーラーで在り続けたいと思っています。
本物のヒーラーになりたいです。

 

 
 

阿河家には、年に二度、季節の恒例行事があります。

まず、春の「山菜採り」
そして、秋の「きのこ採り」

朝早くから、みんな総出でおべんとうを作ります。
もちろん、おにぎり担当はお父さん。
お母さんは、から揚げに、ポテトサラダにと、大忙し♪

ある年の秋、みんなで山の中を歩いていました。

「お父さん、きのこ、どこ〜」

「う〜ん、今年はまだでてないなぁ・・・」

「・・・・」

しばらく、ハイキング気分で歩いていると、
突然、お父さんが

「あ!!!」と叫び、藪の中に飛び込んで行きました。

「お父さん!!どこ行くの?!」と後ろについて行くと・・・

「あった!!!!!!!!!!!!」

と、満面の笑みを湛えたお父さんの手には・・・
なんと、秋の味覚の王様、「松茸」が!!!

「どうして分かったの???」

「いや〜歩いてたら、松茸の香りが匂って来たんや♪」

お父さんは、僅かに香ってきた松茸の香りをかぎつけ(笑)
それを頼りに藪の中の松茸を見つけたのでした。

さすがお父さん!!
すごい!!!!と、
「松茸」がどのようなものかもよく知らないままに、
弟と二人で尊敬の眼差しでみていたのを覚えています。

家に帰り、一本の小さな小さな松茸を
みんなで分けて食べたのを、今でも覚えてます♪

後にも先にも、松茸に出会ったのはこの時だけでしたが
今でも、阿河家に残る、とても思い出深い秋の出来事です。

 

 
 

幼稚園の頃ですが
私が初めて男の子に恋をしたときに
母に聞いたことがあります。

「お母さんも、お父さんのことが好きなの?」

すると、母から返ってきた言葉は、驚くべき言葉・・

「お母さん、実は よく分からないのよね・・・」

「ええぇっーーー!」
衝撃でした。。笑

それからというもの、母にずーーっと質問し続けましたが
聞きたい言葉は1回も得られず。。。


ところが去年の今頃、
母がいきなり「ちょっと聞いて」と話しかけてきました。

「なに?」と訪ねると

「お母さんね、お父さんのこと好きなんだってやっと分かったのよ!」
と言うではないですか!

なんだか、嬉しくて、
「なんで分かったの?!」と聞くと、

「苦手な人の所にいくと、鼻がムズムズするのよね・・。
  拒否反応なのかしら。
  でも、お父さんにはずーーっと一緒にいても、
  1回もそんなこと感じたことないのよ」
と言うのです。


そんな出来事がきっかけで
父への愛を言葉に出して認識してくれたことが、
本当に嬉しかったです。


その日の夜に仕事から帰ってきて、
リビングでテレビを観てくつろいでる父に
母の言葉を伝えました。

「お母さん、お父さんのことやっぱり好きなんだって♪」

(何を今更言ってんだかなぁ。。)と
顔はテレビの方を向いたままでしたが、
横顔は、照れたように・・
とても嬉しそうに微笑んでいました。。

なんだか私の夢が叶ったかのような幸せな1日でした。




 
 

私の父は小さい頃から海外出張ばかりで
一緒に住んだ記憶がほとんどありません。

空港に見送りに行ったり、
たまに外人さんを連れて帰ってきたり、
急に「海に行くぞ!」と車に乗り込んだり・・・・・
「父=イベント」というイメージでした。

そうして、大学生になったときのこと、

ペルー行きの資金稼ぎに、夜遅くまでバイトするようになった私は、
仕事の後に仲間と遊びに行き
朝帰りすることもめずらしくないような生活でした。

一緒に住んでいる家族は、すでに慣れていたのですが、
たまに帰ってきた父は、それを知らなかったようで、
かなり心配したようです。

私が、明け方、家に帰ってくると、
居間にまだ灯りがついていました。

「え!もしや起きている??」

そおっと玄関をあけ
そおっと居間のドアを開けると、
新聞を読みながらじーっとしている父が居ました。

わ、やばい!怒られる!

父に怒られたことはほとんどないのですが、
直感的にそう感じ、
頭の中にたくさんの言い訳が浮かびました。

なんて声をかけようか・・・と迷っていると、
父は、ふっと私を見て、

「お、帰ってきたか。よかった。じゃあ寝るよ」

と寝室に行ってしまいました。

え〜なんで??何にも言わないの?
心配でずっと起きていたはずなのに・・・
きっと、小言のひとつでも言いたかっただろうに・・・

何も言わず、静かに眠りについてしまった父を見て、
怒られる以上の衝撃がありました。
いつも平気で寝ていたように見える母も、
きっと父のような気持ちで待っていたに違いありません。

このときばかりは、心の底から申し訳ないと思いました。
怒鳴ってくれたほうが、まだマシでした。

ごめんなさい
ごめんなさい
ありがとう
ありがとう

そうつぶやきながら、
私は、布団の中で声を抑えて泣きつづけました。

何をしても赦して見守ってくれる。
一人の人間として認めてくれる。

親って、本当にありがたいなって思います。

 


 
 

かねてから、母に風のヒーリングを受けてもらいたいと思っていました。
でも、なかなか踏ん切りがつかないでいました。
ぐずぐずとしていたら母からメールが届きました。


「まだ母の日のプレゼントもらってない」


・・・催促って・・・。
そう思いながらも、意を決して予約を入れることに決めました。

近くにいた和田先生に
「母のヒーリング、予約してくる!」そう断言したとたん・・・

何故か笑顔。とっても笑顔。満面の笑み。
自分でも不思議なくらい嬉しくなってしまいました。


そして、無事予約終了。


結城先生に報告をしていると、肩や背中がスッキリ楽になってきました。
母の前効きによって、私まで変わってきました。

クライアントさんもご両親のヒーリングによって、ご自身が楽になったと
おっしゃっていた方がいらっしゃいました。

親子って面白いね・・・

そんな話で盛り上がった一日でした。

 

 
 

小さい頃、よくお父さんが
「ハンドパワー」を使って?ました。

タバコに手をかざし、味を変えたりしていました。
しかし!内心、
本当??
私はタバコは吸えないし確かめられない・・・


ある日の晩のおかずに、大根おろしがでました。
それが、とんでもないくらい辛い!!!!!
そうだ!

「お父さん!この大根おろしの味変えて!」

「おお♪やってみる」

手をかざすこと暫し。。。

「よし!いいぞ♪」

「いただきま〜す」

・・・・おおお!
大根のあの辛みが無い!!!

家族そろって大騒ぎをしたのは
言うまでもありません♪

でも、その大根おろしは
辛みもないがうまみも無い(^^;)
間の抜けた大根おろしになっていました。

私もできるようになりたい!!!と、
何度か、タバコの味変えに挑戦しました。

「お父さん!!!このタバコ吸ってみて!」

「う〜ん、普通のタバコ・・・」

その後、何度トライしても味は変わりませんでした。
そんな私が、ヒーラーになってるなんて♪

今ならタバコの味を変えるのも簡単ですが・・・

 

 
 

物心ついた頃から、
「お母さんは可哀想」と思っていました。

自分のやりたいことをやらず、
買いたいものも買わず、
常に家族のために一生懸命・・・
ご飯を作るのも、掃除・洗濯も、
考えるのも、心配するのも、常に父や子供のため・・・

そう考えるだけで、涙が出ました。
「なんでもっと自分のために生きないの!」
と怒っていました。

それでも黙々と母は働いていました。

いつの間にか、自分がその頃の母の年齢になっていました。

今になって、母の愛に涙が出るようになりました。
存在の有難さに胸が熱くなるようになりました。
娘として母を誇りに思います。

お母さん、ありがとう・・・

 

 
 

私のお母さんは、料理上手です。

私が小さい頃から、なんでも手作りしたものを
食べさせてくれていました。

大人になって、従姉妹に言われたことがあります。
「ずっと前 遊びに来たとき、おやつに
  “鳥の肝”を食べててびっくりしたことがあった!」


母に 「どうして? おかしじゃなかったの?」 って聞いたら、
「小さい頃は 身体を作るのに 大切な時期だから。。。」って。

記憶には残っていなかったのですが、
確かに、「おかし」を食べた記憶があまりなく
「おかし」に憧れていたのを覚えてます(笑)


私が小さい頃から、
ずっと仕事をしていて忙しかったはずなのに、
ちゃんと、私のことを考えてくれていたんだなぁ。。。と。
母のやさしさと、愛を感じました。

今でも実家に帰ると、食べきれないくらいの
手作り料理がずらりと食卓に並びます。

今も昔も、母の愛は変わっていません・・・・


 
 

今日は母の日で
「遠隔・お母さんありがとうヒーリング」のご予約を
たくさんいただきました。

風の予定表からは
「お母さんありがとー!」と言葉が聞こえてきそうな雰囲気。


セッションに入らせていただき、
皆様のお母様に繋がらせていただくと
お申し込みをされた方や
ご家族に対しての感謝の気持ちが伝わってきました。


  「うちの子がヒーリングをプレゼントしてくれたのよ。」とか、
  「うちの子はいい子ばかりなのよ。」 と
誇らしげに話しかけてくれるようでした。


縫い物をしているお母様の傍らで、
ゆったりと話を聞いているような心地よさ。
うっとりしながらヒーリングをさせていただきました。

いつも、家族のために自分のことを後回しに頑張っているお母さん。

「大変だけど、それが喜びでもあるのよ。」

そう教えていただいたようにも思います。


家族って素敵だな♪ 
素直にそう思える温かな一日でした。

 

 
 

藤村先生のお母様から、
とっても美味しいお惣菜が届いたとき、
一緒に立派なアスパラガスが入っていました。
こちらは生で・・・

新聞にくるまれたアスパラガスは、
すっごく新鮮な感じで、見るだけで癒されました。

そして、翌日、休憩室からなにやらいいにおいが・・・

なんと藤村先生がアスパラをゆでてくださったのです!

口に入れてみると、
なんともいえない甘さ・・・・・
うーん、おいしい♪

でも、何より感動したのが、
そのゆで加減!

堅くも無く、柔らかくもなく、
絶妙の歯ごたえ・・・

お母様の味とセンスは、
確実に藤村先生にも伝わっているようでした。

親子って素敵だな・・・・

母の日を前に、ちょっとあったかい気持ちになりました。

 

 
 

私は、お父さんの作るおにぎりが大好きです。

小さい頃、家族でお弁当を持って出かける時は、
いつもお父さんがおにぎり担当♪
中に入れる具は、お父さんの大好きな鰹節♪

大き目の三角のおにぎり。
塩加減がちょうどよく、本当に美味しい!!

そして、おにぎりのにぎりかたを教えてくれたのもお父さん。
根気良く、やさしく教えてくれたのを覚えてます。
おにぎり最高♪って小さい頃思ってました。

小学校にあがり、初めての遠足の時、母がお弁当を作ってくれました。
ちゃんと、大好きなおにぎりも入ってました。

おべんとうを広げ、大好きなおにぎりをパクリ・・・

おいしくない・・・・・
何故???
そのおにぎりは、とても無機質な味がしたのを覚えてます。


お父さんが作ったおにぎりと、お母さんが作ったおにぎり。


塩を手につけ、にぎるだけなのに
なんで、こんなに味が違うのだろう・・・?
う〜ん、それにお母さんは料理上手。。。

ずっと、ずっと、疑問でした。

大人になり、母に思い切って言いました。

「お父さんのおにぎりは美味しいけど、お母さんのはまずい!」と。

「お母さんね、おにぎり好きじゃないねん。
  小さい頃、お母さんのおばあちゃんが
  よくおにぎり作ってくれたんだけど、
  その時の、おばあちゃんの爪が真っ黒で
  子供心に汚い・・・って思って
  それから、おにぎりが好きじゃない・・・」

それからALPに出逢い、
「波動」というものを知り
なるほど。。。。と納得。

お父さんは、おにぎりが好きで楽しんで作ってた。
でも、お母さんは、おにぎりが好きじゃないな〜と思いながら作ってた。

どっちが美味しいかは、一目瞭然。
料理も、「作る人」の波動がそのままそっくり表現されるんだなぁ。

今でも、私はお父さんの作ってくれたおにぎりが一番大好きです♪

 

 
 

今日は、母の日。

月並みですが、お花を贈りました。

「嬉しかった」と、弾む声が届きました。


辛いとき、悲しいとき、
無意識のうちに 母に呼びかけます。
実際のところ、今「母」が来てくれたところで、
何の解決にもならないケースばかりなのですが・・・

それでも やはり 呼びかけてしまうのは、
永い永い人間の生の営みに於いて「母親」が
常に“愛”や“勇気”の源泉だったからでしょう。


世界中のお母さんに、今日は感謝を 届けたい。

“生命(いのち)を迎え育ててくれてありがとう!”

 

 

 
 

この春、地方に住む両親が
東京に訪ねて来てくれました。

身体が思うようには動かなくなっている父。

父と母と私で、
ゆっくり、ゆっくりと家の近くを散歩しました。

折しも、桜が満開の頃。

少し歩いては立ち止まりながら、写真を撮りながら、
他愛のないことを話しながら、歩きました。

せっかちな母は、ずんずん先を進み姿が見えなくなっていく。。
そんな様子を笑いながら、ゆっくり歩く。

通いなれた駅までの道は、私の足では5分ほど。

でも、その日はたっぷり30分かけて、やっとのことで
駅のカフェにつきました。

そんな調子で、その日は何時間もかけて、
駅向こうの桜を見にいきました。


「もう東京には来られないと思うから。
  子供たちが住んでる所を見れてよかった」

たっぷり時間をかけて、やっとたどり着いた河川敷で、
甲羅干しをしている亀を眺めながら話す母。


一時を思うと、
両親がそろって旅行に来られているのは奇跡的なこと。

頂いている時間と、今に感謝をしながら、
ただ風を感じ、母と一緒に亀を見続けます。


風に舞うシャボン玉。
青空保育の子供たちと保育士さんを横目に、
カメラの構図を決めている父。

「いい写真とれた?」

「そうやなー」

のんびりした時間が、刻々と流れていきます。


夕方の飛行機で帰郷する2人を、空港まで見送ったあと、
電車に乗ると帰宅ラッシュが始まっていました。

急ぎ足の人たちの波に乗りながら、
ゆっくり歩いた1日を、愛しく思いました。


あれから、もう1ヶ月。

「忙しいと思うけど、連絡せえよ」
と帰っていった両親に、
母の日と父の日のプレゼント。

それぞれに、感謝をこめて、今できる精一杯のことをしていこう。

 

 

 
 

小さい頃は、幼稚園が休みの日も
お弁当を置いてから出かける母でした。
小学校に上がってからの夏休みなども、
どこにもつれて行ってもらえなかったように思います。

年老いた祖父母と同居しはじめると、
ほぼ365日
決まった時間に食事の準備をしていた母。

忙しい母と話がしたくて、私はいつも台所へ行き、
一日の出来事を沢山話しました。

手伝うというより、ひたすら話をして、
味付けの時だけ
味見を手伝った私。

自営だった為、忙しくてかまってもらえなかったけれど
夜、料理を作っている母の側にいって、話ができたので
私は守ってもらえる人がいる安心感をいつも持っていられました。

愛で満たされていました。

大きくなって、こう感じられることが
どれ程恵まれている環境だったのかを知りました。

生んでくれてありがとう。
沢山愛してくれてありがとう。
変わらずに愛してくれてありがとう。

母の日が近づくと、逆にこちらが満たされます。

普段忙しいことを理由に、なかなか連絡が取れずにいますが
感謝の気持ち、伝えてみようかな。。。

 

 

 
 

母との思い出といえば、
まず思い浮かぶのが「泥エステ」

*****

ペルーに長期滞在していたころ
母がわざわざ訪ねてきてくれたことがあった。
せっかくなので有名な温泉に行こうと、カハマルカに連れて行った。

温泉つきのホテルはペルーの中ではゴージャスな方で、
なんとエステサロンがついていた。

「二人いっぺんにできますか?」ときいたら
「もちろん!」
というので、母とふたりで
「ペルーのエステってどんなだろうね?」といいながら
エステサロンがある別棟に向かった。

部屋に入ったら、なんとベッドはひとつ。
まずは、私が服を脱いで、そこに寝ろという。
寝ると、丁寧に泥を塗り始めた。
いわゆる「タラソテラピー」らしい。

そして塗り終わると、
「はい!つぎはお母さん」
と、母をベッドに寝かせた。

私はどろんこのまま立ちんぼ・・・

「このまま??!!」

ときいたら、
「そうね〜、座るところないわね
  ・・・あ!あそこ!」

案内されたのは、なんと便座!
たしかに泥がついても洗いやすいけど・・

かくして、私は母の泥塗りがおわるまで、
全身泥まみれで便座に座っていた・・・

二人いっぺんに出来るって言ってたのに・・・(号泣)

母は大爆笑、私は苦笑、
でもペルー人のエステティシャンには、
なぜ私たちが笑っているのかわからなかったらしい。

母とペルーの話になると、
必ずこの話題で盛り上がってしまう。

あの時の母孝行は、ちょっと悲惨だったけど、
今は、ヒーリングというプレゼントが出来る♪

よし!これで名誉挽回だ!!!



 

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